かの有名な印象派の画家、クロード・モネは風景画が有名ですが、その作品の中にはいくつか人が書かれた作品もあります。
モネは生前人物も描いていたのですがある事がきっかけに描くことを辞めてしまいました。そのきっかけとはどのようなものだったのでしょうか。
モネの作品は70年代と80年代で大きく変わります。それが人物画を描かなくなった、ということ。1873年にモネは「ダリアの咲く庭」を描きました。
この作品の庭は自身がセーヌ河流域のアルジャントゥイユに住んでいたときに描かれたもので、作中にはまだ男女の姿が見られます。
続いて1880年に「サンマルタン島からの眺め」を、さらに1882年にサンジェルマンの森の中でを描きましたが両作ともに人物は作中には現れません。さらにそれ以降にも人物は現れません。
そこからのモネの作品は風景画から光に重きをおいて描かれるようになりました。この頃のモネは目が悪くなっており、光を表現する作風にせざるを得なかったのかもしれません。
またその後は光の変化と季節の移り変わりをとらえるために、時間帯や視点を変えて何度も同じ風景を描く方法を確立させていきます。代表的なのが「印象・日の出」シリーズや「睡蓮」シリーズで、今では光の画家とも言われるようになりました。
クロード・モネは妻のカミーユを大変愛していました。そのためカミーユが32歳の若さでこの世を去った1879年以降、人物画を描くことはありあませんでした。
1866年の『緑衣の女性』や、扇子を持って着物を着て踊る女性を描いた『ラ・ジャポネーゼ』などがありますが、最も有名な作品は1875年に1枚、1886年に2枚描かれた『日傘をさす女』でしょう。
『日傘をさす女』では1枚目では妻カミーユの顔が描かれていますが、2枚目以降は顔は描かれていません。これらは追憶の妻カミーユを思い出しながら描かれた事でしょう。
カミーユはモネの中で最初で最後のモデルでした。死後のカミーユをモネは描きました。
それには画家として色の変化や生命の光としての終わりなどに衝撃を受けたから、など様々な考察があります。最愛の妻を亡くした後、モネはどんな思いでその亡骸を描いたのでしょうか。
クロード・モネ、その作品は光、そして最愛の妻カミーユへの愛情から出来ている事がわかりました。これから作品を見るときはより味わい深く感じる事ができますね。